20060826  ぼくを探しに/シェル・シルヴァスタイン (The missing piece /Shel  Silverstein)

 

僕の生まれた 1976年に、ひとつの絵本がアメリカで発表された。

「だめなひととだめでないひとのために」

という綴りで始まるこの絵本に、僕は強く惹かれてしまった。

 

パックマンのような形の主人公(?)が、自分に足りないもの

まんまるになる為のかけらを探しに旅に出る。

ついにそのかけらに出会った主人公は喜んでかけらと一緒になってまんまるになる。

ここで終わりかと思いきや、この物語はその先を描いている。

まんまるになってハッピーエンドのはずの主人公は、代わりに歌を歌えなくなったことに気がつく。

せっかく巡り会ったかけらに別れを告げて

また新たなかけらを探しに歌いながら旅に出るところで物語は終わる。

 

印象的だったのは、巻末の訳者のあとがきの一節。

「大体、私たちの人生は自分の足りない何かを求めてどこまでもころがっていくという物語とはかなり様子の違ったものである。そういうことをある時期に卒業して大人になるのが普通の人間なので、いつまでも自分の missing pieceを追い続ける、というよりその何かが「ない」という観念を持ち続けることが生きることのすべてであるような人間は芸術家であったり駄目な人間であったりして、とにかく特殊な人間に限られる。」

 

こういう認識が、僕の生まれた当時の社会の風潮であったとすると

なんとなく自分の中では今の社会の状況に納得が出来てしまった。

僕らにはおそらく引退などなくて、老後という概念もない。

それは若いからそう考えるということではなくて

いつまでも学び吸収し続けることを要求される職業だからだ。

でも僕らが特殊なのではなくて、大切なことをみんなが忘れているのだと思う。

 

自分の足りない何かを求めてずっと転がり続けること。

足りないものが見つかる保証は無いけれど、転がり続ける限り、間違いなく先へ先へと進めている。

気になるのは転がり続けた先がどうなるのかだが

自分の意志で、自分の身体で転がったのだからきっと納得のいくものなのだろうと思う。

探し続けたものを見つけて満足してしまうのではなく

探し続けることの大切さについて問われている気がする。

 

結果より過程を重視する?僕はよくばりだからどっちも大事にしたい。

納得のいく転がり方をすれば、結果がついてくるものなのだと思っている。

 

気がついたら僕も 30歳になってしまった。

このパックマンを見習わなくては。

 

 

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